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心理学を学ぶようになったきっかけ

私は薬剤師として働いた後、結婚退職し家庭にはいりました。自分の人生を振り返りますと、幼少時より小中高大学、社会人に至るまで、幸か不幸か人間を心から恐ろしいと思うことはありませんでした。

ところが、自分の子供が幼稚園生になり、幼稚園のママ同士のお付き合いが始まると、私がそれまでに経験したことのないようなお付き合いがこの世に存在していることに気づきました。(それまでの私は自分の心から気の合うお友達とのんびり楽しくマイペ-スに無防備に何の問題もなく過ごしてきていました。)

ただ同じ幼稚園、学校、クラス、もしくは家が近所であるということだけで、気が合う合わないを抜きにして子供つながりで形成されている親の集団に身を置き、他人の悪口や噂話で盛り上がっている集団があるということは、正直、驚きで苦痛でもありました。

そういうことに何時間も無駄に使い、その上後味の悪さが残るだけで私にとって自分自身の向上とは程遠く虚しく感じました。

オピニョンリ-ダ-を伴うグル-プによって、そのグル-プ内の一部の人の個人的な感情から、標的となる個人の評判、評価を「噂」という手段を使って左右させているという現実に直面し、そういうことを企てる人間も、そして、それに疑問を持ちながらも今度は自分がその標的になるかもしれないと恐れるあまりそれに逆らえず「長いものには巻かれろ」的にそれに同調する人間も、そういう自分も、全てが恐くなり最終的には子供つながりの親とのお付き合いそのものが恐いと思うようになりました。

いまでこそ「~と皆が言っている」とか「あの人は皆に嫌われている」というような発言を初対面でするような人に出会うと、私の中ではその人に対して、{この人は要注意人物}という危険信号がピカピカと光り身構えますが、自分自身が痛い目に遭ってから初めてそれ以前のあまりにも無防備に生きてきた自分自身をあらためて思い知らされました。

そういう経験から、自分の意見であるはずなのに「皆が~と言っている」というように、自分は決してその発言に責任を持たず、「皆」という「漠然とした他人」の仮面をかぶり責任を転化するような人たちとは対照的に、初対面に出会った人が「私は~と思う」「私の考えは~である」とはっきり自分の意思として表示できるひとであるかどうかは、私の中ではその人とのこれからの距離感を推し量るひとつの指標になりましたし、そういう人に出会うたびに(数は少ないですが)何かに感謝したい気持ちになります。

そうして、私は意識していわゆる集団生活で発生する噂話には加わらず、自分が直接その本人から聞いたこと、自分が見たこと、経験したこと以外は信じ込まないようにして生きるように努めました。

自分だけの人間関係なら、身に覚えのない攻撃をしかけてくる相手からは距離を置くもしくは近づかないといった防御もできますが、子供つながりの関係においては、子供はいわば人質のようなものですから、子供が幼ければ幼いほど親同士の感情の世界はそのままこどもの世界に反映されるのです。

これが人付き合いの「しがらみ」というものかと思いながらも、それまで自分の意思に正直に自由に生きてきた私にとっては苦しいものでした。そして、私は忍耐するということが欠落していることも思い知りました。今思えばそういう集団から逃げて逃げて逃げることで自分が傷つかないように自分を守ってきたように思います。

あれから十数年経ち、人間関係で揉まれた事がなく大人というにはあまりにも未熟だった私は、子育てを通して様々な経験をし、こどもと共に心に多くの傷を受け、たくさんの涙を流し、それでも支えてくださる友人や両親、恩師に助けて頂きながら自分なりに試行錯誤を繰り返して生きてきたように思います。

これからの十年はもう一段ステップアップし、自分に足りなかった複雑な心を持つ人間の観察、研究、分析を通して自分自身の向上に努め、更に今まで自分を支えてくださった心温かな方々への感謝の気持ちを忘れずに、私が受け取った暖かな心を今度は次世代の人たちへ渡せるように恩返しできたらいいなと思います。

長いトンネルを抜け出てみると、子育て中の一部の専業主婦は、ご主人や家族や信頼できる心の友の支えが無いとかなりのストレスが溜まり他人の悪口や不幸を面白おかしくおしゃべりしながら生きていくことしか、その発散の方法を知らないのかもしれない、それがその人(おそらく誰よりも孤独や孤立を恐れていたからこそ、自分が孤立させられる前にほかの誰かをタ-ゲットにして、自分が安心していたかったのかもしれないと勝手に推測しています。自分の心が満たされて幸せな人は、誰かに意地悪をしたり、罠をしかけたりはしないものです。)が、自分の精神をかろうじて支え守りながら生きていくためのその人なりの手段だったのかもしれないと、客観的に思えるようになりました。

でもそんなこと(他人の心を傷つけること)でしか、ストレスを発散させる方法を思いつかないとすれば、その人は決して「幸福な心ではない」のでしょう。世界中の全ての人が幸せな心を持てるようになればいいのに。私も、主人や家族、友人の支えが無かったら、そういう「心の寂しい人」になっていたかもしれない。そう思うとあらためて回りの人たちへの感謝の気持ちでいっぱいになると同時に、もっと人の心を勉強してみたいと思うようになりました。

先日、夏目漱石の「草枕」の文章が偶然私の目に留まりました。そこには、私が長い間捜し求めていた答えのヒントが秘められているような気がしてハッとしました。

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草枕

                                    夏目漱石

山道を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画ができる。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらする唯の人である。

唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば、人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

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私が心魅かれる人とは、いつもどんな些細なことにもどんな人にも感謝の気持ちを持って、毎日小さな幸せをたくさん発見し積み重ねながら心穏やかに生きている人。

私が苦手だなと思うタイプの人は、心の奥底に怒りや劣等感を持ち続け、他人(幸せそうに見える人)を罠に陥れることで他人の不幸を密かに喜び、自分と同じ次元に引きずり落とすことで自分のストレスを発散しようとする人。

100パ-セント完璧な人間は存在しないのだから、全ての人は多かれ少なかれ劣等感を心に持つでしょう。つまり劣等感を持たない人間は存在しない。

けれど、一度心に生まれた劣等感をそのまま「劣等感」として持ち続けるのか、それとも劣等感をバネにしてそれを「向上心」に変換して生きていくのか、その選択肢は誰にでも平等に与えられていると思います。

人は皆、完璧ではないのだから、お互いの足りない部分を非難しあうのではなく、補い合い支えあえる関係を築けるということこそが、本来、集団が持つべき利点ではないでしょうか。

その原点に立つことが、集団の中で発生する「いじめ」=「陰湿な裏攻撃」をなくすことにつながると思います。

集団の中で発生する力は、想像を絶するくらい大きくて、個人の心をそしてその後の人生をも大きく左右します。だからこそ、それはそこに身を置く一人一人の意識によって、個人を破壊する闇にもなれば暖かく包み込む光にもなることができると思います。

                   ク-ミンでした。

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